山海塾 「時のなかの時 とき」
2006年03月23日 20:05
こんにちは。デコです。
先日、山海塾(http://www.sankaijuku.com/about_j.htm)の日本公演を観にいってきました。
僕はいままで「舞踏」というものにまったく興味が向いていなくて、この「山海塾」も、はじめてその存在を知ったきっかけは、子供のころに僕の大姉から。この僕の大姉(僕には二人姉がいて、歳が離れた一番上の大きな姉だから大姉)が、ちょっとカルチャーよりというか独自の美意識が強い人だったのかなんなのか、ちょっと?な人だったのですね。
僕はかなりこの大姉の影響を受けていて。大姉の部屋を探検するのが子供のころの冒険だったのです。小学生のころYMOとかKISSとかのジャケをこっそり持ち出しては模写したりしたのでした。
その頃「山海塾」の存在を知ったのではないかな。大姉の部屋で。山口小夜子と一緒の「白塗りの裸の集団」のイメージとして。それ以来はメディアを通して耳に入る程度の存在でした。つまり、ずっと忘れていたのです。
山海塾大ファンのいつもの大きな口の彼女に出会うまで。
で21日の新作「時のなかの時 とき」(http://www.sankaijuku.com/w_toki_j.htm)を観てきました。
すべての照明が落とされ一切の光がない真暗闇から、かすかに明かりがにじみはじめ、少しずつ少しずつ浮かびあがってくる、人とモノの輪郭があらわにされる冒頭の場面から、僕はざわざわと粟立ちました。ひさしぶりに。「なにこれ?」という感じ。
変なスピードの夕暮れが巻き戻しで突然現れた奇妙な感触。
時間の感覚が狂わされたとでもいうような。
何かの動きに目を奪われているといつの間にか別のものがあらわになってくる。
「これってさっきこんなところにあったかな?」
それらがエンディングの群舞まで続く。
はじめてなのだからあたりまえなのだけど、生まれてこのかた「感じたことがない」「行ったことがない」「見たことがない」けど、きっと僕たち人間という生きものに強く結びついているまだ見ぬ「なにか」。
こんな「時間」が流れている
こんな「空間」がどこかにあって
こんな「生命」が生きている。
夢とか想像のレベルではなくて、必ず存在するであろう“なにか”。
そんなイメージが、舞踏手の指先、視線、明かりと影、メロディーとリズムと静寂が混然となってすりよってきて、いつの間にかその中というか、その隙間に立たされているようなまったくはじめての感触。
主宰の天児牛大(あまがつうしお)の表現テーマである、“文化”が露にする人間の「差違」と人間の“身体”の「普遍性」。そして「重力」が生み出す“緊張”と“緩和”。そんな目に見えないものを、まだ見ぬなにかとして観るもの個人のインプロビゼーションに転換させてしまう、この表現の力って、ちょっと広告とは違う恐さがある。
しかも彼にとっての舞台は、公で演じると書く「公演」で観客にこちら側からの問いかけができる「場」、つまり「社会」と通ずることができ「場」なのだそう。
天児の「舞台は観るものそれぞれの“合わせ鏡”となり、観るものは個々の印象と個人史に向き合う。舞台が自分自身とのダイアログ(対話)とのきっかけになれば」とのごとく、僕は、僕だけが欲している、僕もまだ知らない「なにか」を見せられたのかもしれないなあ。ちょっと得しちゃったな。だって、なかなか自分のことはわからないでしょ。
公演が終わって、ホールから出てきた僕の前で、片足をわずかに引き、指に力をいれ、まっすぐと天井に向かい手をかかげるポーズをとりはじめた彼女。何をしているかと思えば、エンディングのカーテンコールで、喝采の拍手を浴び観客にこたえる天児氏のポーズを真剣に演じていたのでした。あっぱれ。
生きざま更新中! 山口デコ


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