決定不可能性という光 『現代文学の炎』対談 中上健次
2008年12月19日 12:06
思いもよらず手にした対談集「異端者の快楽」で、久しぶりに中上健次の言葉に出会い、頭と体グニャリとするくらいの刺激を受けました。
中上文学の出発点である「物語」「エロス」をなぜ書き、なぜ「差別の構造」を仕組むのかと聞く若き見城徹に対し、
「エロスという問題と、あるいは物語という問題と、言ってみれば決定不可能性みたいないものとしてとらえているんだよね、俺は。差別するものは差別される。被差別者は差別者である。そういう、いつもどん詰まり。
男は女で、女は男で……。エロスというのは、それを回すときに出てくる、何か光であったり、あるいはそれを回す最初のエネルギーである」と答える中上健次。
男が女に求める、女が男に求める。男の女であっても、女は男ではない。女の男であっても、男は女ではない。人が人に求めることの決定不可能性。彼の言葉から僕が勝手に導きだした「答えのない結論を認めること」が、ここ数日の濁った僕の頭と体の中をもれなく照らし、その光に則って見えなかったもの、余分なものを再配置していく。
このように中上健次の話す言葉の核と僕の中で起こるグニャリの核に直接的に関連はないのだけれど、彼の言葉ひとつひとつが僕の頭を通りぬけ体内に積み重なるほどに、もれなく照らされた頭と体内をグニャリグニャリと再配置できる気持ちよさ。
見城徹が言う「すごく頭で考る。それと同時に、結局は体でしか反応していない。それが見事に入り混じっちゃっている」作家だったからこそ、中上健次のひとつひとつ言葉にはものすごいエネルギーが宿っているのかもしれません。
この対談に出会ったことで、読む人間の頭と体内を強く照らすことができる文学こそが「現代文学」の存在意義だと思えてしかたありません。
十数年前に読んだ「枯木灘」「岬」から読み返してみようと思います。
今日も生きざま更新中!
山口デコ


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